MANSAI解体新書 その弐拾参 特別篇「萬斎」 舞

d0226702_9314620.jpgMANSAI解体新書 その弐拾参 特別篇「萬斎」
野村萬斎 三浦雅士
2013年10月25日(金)19時より@世田谷パブリックシアター
4000円
(26日が犬童一心、27日がいとうせいこうとの対談。それぞれテーマが 舞、映、娯。)


満席。今回初めて解体新書に行ってみたのだけれど、こんなに人が呼べるとは。
まず野村萬斎が出てきて「なぜ三日連続のこういう企画になったかというと、小屋が空いちゃったのに予算が無くて、低予算でできるものということで」と笑いをとります(きっと本当のことだったのだろう)。

三浦雅士登場。名前だけはぼんやりと知っていたけれど、もっと若い人だと思っていました。(よく考えるとそんなはずない。)そしてこの人喋る喋る。そして話が上手い。

まず「舞踊」について。舞は「回る」ということを基本にしていて能楽の中心動作。アジアの農耕民の所作である。踊は「跳ぶ」を基本動作にしていてバレエの基本動作、中央アジアからヨーロッパのものである。
日本では「跳ねる」は「跳ねあがりもの」などといってどちらかというとnegativeにとらえられることもある。能では跳ねることはあるがあれはjumpではなくてstumpである。
日本人の古層の記憶には狩猟生活であった時代のjumpももちろん刻まれているのだが…。

というところから入り、
ところが19世紀産業社会、西洋式軍隊の導入により、所作の西洋化が始まった。そして現代では農耕の記憶もかすかなものとなってきており、身体の西洋化が起こっている。
身体が変わったのに能・狂言が残せるか、発展させられるのか?萬斎はmodernな身体をもって能・狂言をやっている。その意味は?というところまで発展。

上記を踏まえて萬斎がボレロをやることが今の能界には必要なのだが、能界はそれを見ないようにしているのではないか、と。60年代の観世寿夫や野村兄弟のmovementを受け継いでいるという意識のある能役者はいるのか?

と、ここで萬斎が「ハイ」と手を上げる。

などなど、身体と舞踊の話から、
舞台を面白く見せるにはどうしたらよいか、ということで視覚(心理)の研究が進んだ。ボレロはそれをうまく使っていると思う、という話へ。
世界のperforming artsはgraphic artの方向に進んでおり、ダンサーは絵具、道具、という演出が多い。蜷川の舞台はそれに近い。俳優個人の個性を重視する演出とは相対するわけだけれど、萬斎ボレロはこの交点にある、と。
そこで萬斎、「僕は何かを作るときには輸出を念頭に置いている」と。
確か「マクベス」のときも外国に持っていくことを考えて舞台装置を考えたといってました。

そしてまた「跳ぶ」話に戻ってくるのですが、
萬斎曰く、そういえば狂言は能よりも古く、古層の記憶を留めているのではないか、というところから話は「釣狐」へ。これは非常に古いものなのだそうですけれど、飛び跳ねる演技が出てきて、しかも着地の時に音をさせてはいけないのだそうです。

さらに話は本日のボレロへ。今日は能面(しかも視野の狭くなる女面)をかけるということ。能面はかけると視野が狭くなるので農耕タイプのダンスにはこの規制が有利、と三浦氏。
そしてボレロ自体がバレーの世界における狂言のようなもので、ベジャールは古層を目指した芸術家であったと。

萬斎曰く、「ボレロはもともと父がやりたかったものなんです」「誰のを見て?」「Shonach Mirk」。
へーーー。


ここで対談終了。休憩からボレロへ。
舞台に目付柱の代わりに低い白木を立て、奥には影向の松の幹の無いものが書かれた白い幕。
お調べとひしぎのあと、ボレロが始まります。
白い広口袴(生地は柔らかそう)、白い直衣、金の烏帽子の装束を付けた萬斎登場。面をかけてはいても萬斎の舞ははっきりそれと分かる特徴がありますね。所作の一つ一つは三番叟はじめとする仕舞でよく見るものですが、こうやって面をかけ、ボレロが流れているとなんだか上質なSFの世界、あるいは武宮恵子の「テラへ」を思い出します。
もっと見ていたいな、というところで終わり。拍手がなりやまないけれど、アンコールはありませんよ(外国ではするのだろうか)。


休み時間に亀井広忠発見。一人で来ているようでしたが。思っていたより小柄な人でしたがなかなかかっこよかった。
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by soymedica | 2013-10-27 09:33 | 能楽 | Comments(0)
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