西塔の武蔵坊弁慶

d0226702_0145918.jpg佐賀、唐津の旅から帰ってきました。もちろん佐用姫伝説の鏡山と虹の松原、行ってきましたよ。


ところで、「西塔の武蔵坊弁慶」って、何だろうと思っていたら、司馬遼太郎さんの「街道を行く」にちょっとヒントが。ま、結局のところ正確にはわからないらしいのですが、以下引用です:


むかしから叡山では、
「三塔十六谷」といわれる。中世の叡山の在り方は西洋風にみれば総合大学というべきものであったろう。三塔(東塔、西塔、横川)が、三学部もしくは三大学閥とみていい。その下に、谷という学科もしくは小学閥が、それぞれ附属していたし、いまもそうである。

東塔 - 北谷、南谷、西谷、東谷、無動寺谷
西塔 - 東谷、北谷、南谷、北尾谷、南尾谷
横川 - 般若谷、香芳谷、戒心谷、解脱谷、兜卒谷、飯室谷

これらの谷々に、かつては「三千坊」と誇称された多くの相貌があったが、いまはそのほとんどが廃れている。
「尾根に住むと風がつよいが、谷に住むと風がふせげます」
と、東塔の無動寺谷でかつては小僧だった福田徳郎氏 - 今は朝日新聞社出版局のカメラマン - が教えてくれたことがある。
なるほどそういえば、十六谷のほとんどが、南北に走る叡山の稜線(尾根)の東側(琵琶湖側)で、西側の京都側では無い
 日本は冬季北西風(あなじ)と呼ばれる悪風が吹く。その風が京都方角から吹いてくるとき、琵琶湖側の谷々に住んでいれば屏風のかげで見をちぢめているようなもので、その風害や寒気からわずかながらものがれることができるのである。
「西塔の武蔵坊弁慶」
などという。この名乗りによって、堂衆という下級の雑役僧だったといわれるかれは、西塔学部に属し、武蔵坊という宿舎に住んでいた、ということになる。一説に、地方の武士出身の僧の通称には、国名がついたという。武蔵坊というのは宿坊の名ではなく、弁慶が紀州熊野の武士の出であるということからの通称だったのだろうか。


司馬遼太郎 街道をゆく16 叡山の諸道 朝日文芸文庫の「横川へ」の章から。
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by soymedica | 2012-10-07 00:18 | 本・CD・その他 | Comments(0)
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