国立能楽堂普及公演 千切木 鐘馗

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国立能楽堂普及公演6月
6月9日(土)13時より
正面席 4800円

解説 鐘馗について 伝説と風習
井波律子

狂言(大蔵流)千切木
シテ 山本東次郎、アド(何某)山本則俊、(太郎冠者)若松隆、(太郎の妻)山本泰太郎
立衆 山本則孝、山本則重、山本則秀、山本凛太郎、遠藤博義

能(金春流)鐘馗
シテ 金春安明、ワキ 高安勝久、アイ 山本則重
笛 寺井久八郎、小鼓 幸信吾、大鼓 亀井実、太鼓 徳田宗久
後見 本田光洋、横山紳一


今回は今までで最低のコンディションでした。なぜかと言うに、正面3列8番に座っていたお爺さん、あなたのせいですよ、あ・な・た。耳かけ式(眼鏡のつるの部分か?)の補聴器を使っているのですが、正面最後列近くの私のところにまで聞こえてくるハウリング音。最初は解説者の使っているマイクかと思いましたが。私が隣に座っていたら絶対に文句いうけれど。

いかにも研究者と言った感じの井波律子氏登場。先生と呼ぶのがしっくりくる感じ。どちらを向いて話すか若干迷って目付柱の方を向く。
鐘馗伝説のいわれ
8世紀の唐の玄宗皇帝が瘧(マラリアらしい)になって臥せっていたとき、その夢の中で小鬼が楊貴妃の匂い袋と皇帝の笛を盗むと、大鬼が出てきてそれを取り戻し、小鬼を食べてしまう、その鬼が鐘馗であった。鐘馗は自分は高祖の時代に科挙に失敗して自害したが、皇帝はそれを憐れみ厚く葬ってくれた、それに感謝して守り神となったと語る。(鐘馗は石段に頭を打ち付けて死んだ、と伝えられており、これはその当時の流行りの自殺方法であったらしいです。)
この夢を玄宗はお付きの呉道子に語った。呉道子がそれに基づいて書いた鐘馗の絵がそっくりであったと語り伝えられている。後に宋代になり、木版印刷の発達とともに鐘馗の似姿は広く流布されるようになった。17世紀の明末から清朝になると、鐘馗の絵は大流行となり、端午の節句に飾られるようになる。
端午の節句自体はさらに昔の戦国時代に(紀元前ですよね)起源がある。楚の屈原が抗議の投身自殺をしたのが5月5日であり、それを祭るために川に粽(笹にくるむのは魚に食べられないため)を投げいれ、鎮魂のボートレースをしていた。
ともに非業の死を遂げた人ということで、端午の節句には鐘馗の画像も飾られるようになった。
鐘馗が日本に伝来したのは19世紀ころであるが、京都では今でも古い家の小屋根に小さな鐘馗さまが飾られているのが見られる。

と言うようなお話でした。観世バックナンバーにも詳しく出ています。科挙では容姿も点数になったとかで、鐘馗じゃ合格しない、と書いてありました(笑)。


千切木とは、武器に使うに適当な長さの棒のことだそうで、連歌の会で仲間外れにされた夫の喧嘩に妻が加勢する、という話です。東次郎はみえっぱりで情けない男が上手い。それにしてもこういうしょうも無い奴、いますよねー。
そして主役を引き立てる妻の泰太郎も良かったです。
立衆がずらっと並ぶ演目なのですが、凛太郎クン背が伸びましたね。遠藤博義より大きいのでは。絶対に前回みた時(3月だった)より5センチは伸びた。


さて、鐘馗。江戸初期には金春家の能という位置づけだったらしいですが、今回も金春流。
能自体は帝都に陳情に行く人の前に鐘馗が現れて、「私は鐘馗です」と言って去った後、もう一度出てきて国を力強く守っている様子を見せる、というそれだけのものです。地謡がなかなか良くって、(クセが難しそうな節付けだった)飽きさせません。鐘馗も後半は宝剣を持って大活躍でした。

もっと、集中して見たかったなー。

面は能楽堂の表示には前シテが真角、後シテが小べしみ、とありましたが、どうやら前シテは怪士であったものらしい。


参考は観世2011年4,5,6月号。
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by soymedica | 2012-06-13 22:04 | 能楽 | Comments(0)
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